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Lumen gallery NEWS LETTER

Lumen galleryでは、活動記録とメディアアーティスト・研究家の森下明彦氏による連載「メディア都市京都」を収録したニュースレターを不定期に発行しております。ギャラリーや周辺にて配布しております。また過去の印刷用データを下記からダウンロードすることができます。

EXHIBITION REPORT
メディア都市京都


メディア都市京都

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森下 明彦 (メディア・アーティスト/美術・音楽・パノラマ愛好家)
美術と映像に関する調査研究を続けながら、その知見を作品制作に反映させるとともに、上映会の企画も行う。個人的に制作された映像作品の保存のための、アーティストが運営する組織の創設を準備中。




第1回 -歴史的な粗描-

やや大袈裟な言い方かもしれないが、京都もメディア都市の一つである。映画産業の中心地で あったことがその根拠であるが、幅広く見渡すと別な様相が浮んでくる。これから連載する本稿では、このLumen Galleryが添い遂げようとする個人的映像制作を含んだ、京都という都市の映像と 美術の水脈を歴史的に俯瞰することを狙いにしている。本格的なものは将来の課題として、ここではその素描を試みる。メディア都市京都で活躍した先達の足跡を辿る旅に出掛けたい。【註1】
まずは 1891(明治24)年にまで歴史を遡行したい。その年の7月5日、新京極の、現在はMOVIX京都(その前は京都ロキシー、さらにそれ以前が京都座)となっている場所にパノラマ館が誕生した。 円形の建物に収められた、360 度の周囲全部が精緻な写実描写の風景画(しばしば、戦場のそれであり、新京極の場合、何とアメリカの南北戦争が描かれてあった。画家は後出の浮世絵師、野村芳 國。その後、絵図の取り替えが何回かあった。ただし新京極のそれが円形のパノラマ館であったかどうかは、残念ながら実は不詳である)――観客 はその中心にある展望台から一望するのであるが、そのすぐ下から壁際の絵まではこれまた巧妙な造作(偽景)が続いている。実際の場所に立って光景を見渡しているかのような現実感と共に、独特の眩暈もが得られる。最近では美術家のやなぎみわがその演劇の主題に取り上げていることもあり、再度陽が当たったようである。この19世紀の「マス・メディア」(シュテファン・オェッターマン)は、この国では前年の上野と浅草のパノラマ館を嚆矢として、京都のそれは大阪(難波)に遅れること、6ヶ月程であった。
少し経った 1895(明治28)年の第四回内国勧業博覧会時には、現在の京都国立近代美術館の北西側の疏水沿いにそれが2館建ち、また円山公園にはパノラマの言わば兄弟分であるディオラマの興行もあった(前記の新京極のパノラマ館も存続していた)。その後も 1904(明治37)年頃まで場所や建物を違えてはいたが、展覧が行われていた。
もちろんこの国の主な大都市にはパノラマ館が建従来パノラマは映画の登場によって衰退・消滅していったと理解されていたが、上野パノラマ館のように1911(明治44)年になっても新しい絵図に交換して再度開館していることもあり、私はそうした説にはにわかには賛同しない(博覧会など のパヴィリオンとして活用される例が増加することもあるが)。
さて、その映画であるが、この国の最初期のそれも京都を舞台としていた。百万遍の南に位置するアンスティチュ・フランセ関西(以前の関西日仏学館)に、その名を抱いた講堂がある稲畑勝太郎はリュミエール兄弟の知人であり、誕生したてのシネマトグラフを日本に持ち帰った(技師である、フランソワ・コンスタン・ジレルも同行した)。 稲畑たちは河原町通りに面した京都電灯会社の敷 地で、シネマトグラフの試写を行った(二代島津源蔵が貢献したとも言われている【註2】。なお、この場所の北東側は旧立誠小学校である)。時に 1897(明治30)年2月中旬、リュミエール兄弟の パリでの一般有料公開(1895[明治28]年12月28日)の約1年と2ヶ月後と言う早い時期である。
残念ながら、最初の一般上映は2月15日から大阪(難波の南地演舞場)で行われたのであるが、引き継いで3月1日から開催された京都での上映は、新京極のパノラマ館のやや南西側、元東向演劇場(京極座)においてであった。

【註1】この小文の執筆にあたっては、西村智弘の優れた論考,「連載:日本実験映像史」全33回(「あいだ」87号-123号/2003年3月-2006年3月)を参考にした。著書としての刊行を望みたい。
【註2】展覧会カタログ『京都新聞創刊 130年記念前衛都市モダニズムの京都展1895-1930』(京都国立近代美術館/2009年/158ページ)。なお、大阪よりも前に京都で公開されていたとする研究もある。鴇明浩&京都キネマ探偵団編『京都映画図絵̶̶日本映画は京都から始まった』(フィルムアート社/1994年/132~133ページ)



第2回 - 歴史的な粗描 -

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【図版1】

ここで付言するなら、このような稲畑のシネマトグラフの芝居小屋での興行を、興行師として取り仕切っていたのが、先述の新京極のパノラマ館の 絵図を揮毫した野村芳國である。彼はさらに、ジレルの手伝いをして日本最初の映画撮影に関わってもいる(いくつかの作品についてであるが)。その時に撮影された映像は《明治の日本》と題されたアンソロジーの中に組み込まれていて、現在に伝わっている【註3】。芳國の子である野村芳亭と孫の芳太郎は映画監督として有名である。メディア都市という内実には、こうした(時にはメディアを超えてしまう)人間関係のつながりも含まれるのである。
始まったばかりの映画興行であるが、その雰囲気を知っていただくために画像を掲載したい。大阪や京都、東京での最初の上映から暫く経過した時点で、仏国自動幻画協会と称する組織が全国の上映に向けて作成したと推察される、シネマトグラフ興行用ポスターである【図版1】。
ここでは言及出来ないが、明治期だけに注目してみても様々な視覚的メディアが存在した。年代の後先に構わず列挙するなら、幻燈がそうであり、演劇に映画を組み合わせた連鎖劇、さらにはキネオラマや汽車活動写真といった仕掛けものなどである。蓄音器などの音のメディアも加えるなら、極めて豊かなメディアの生態系が現出していたと推測出来る。本稿では、僅かにパノラマと活動写真のみを取り上げたが、このような豊穣性については後日の宿題としたい。
後段で映画スタジオや映画館の状況を概観するが、同等に重要なのは家庭でのメディア体験、平たく言えば、幻燈や玩具映画【註4】を家の中で家族や友人たちとで楽しむことである。なるほど、それらの機器や種板、フィルムが高価であり、庶民にとっては高嶺の花であった事実があるにしても、しかしそれでも、例えば樋口一葉の「たけくらべ」において描写されているような人々とメディアとのつながりが、存在していたのである。このような点はややもすると従来の映画史では取沙汰されていない領域であるが、個人的な映像表 現の視点をも重視して考察を進めたい私にとっては重要である。メディア受容・活用の個人的、私的側面への目配り――これも先述のメディアの生 態系の豊穣さを解明する上での大事な契機である。このような視点において、やがて大正末期以降、パテ・ベビーなどの小型カメラを用いたいわゆるアマチュアによる映画制作が浮上してくる。


【註3】光田由里「ジレルとヴェール 世紀末日本を訪れた二人の映画技師」(『映画伝来 シネマトグラフと〈明治の日本〉』岩波書店/1995年/49 ページ)
【註4】太田米男が中心となって同じ京都の中央区壬生に最近開設した「おもちゃ映画ミュージアム」も、Lumen galleryとともに、現在(そして、未来)のメディア都市京都を形成するものとなるであろう。詳しくは以下を参照:http://toyfilm-museum.jp

【図版1】仏国自動幻画協会「シネマトグラフ興行ポスター【仮題】」(1897〔明治30〕年以降/筆者所蔵)。このポスターの印刷所、七宝堂の所在地も同じく、京六角新京極東入であり、あの東向演劇塲のほぼ近所になる。現在、この版元について調査中であるのでご存知の方はお知らせ願いたい。



第3回 - 歴史的な粗描 -

映画館での上映というこれまでの主流な方式ととも に、DVD、あるいは、YouTube(ユーチューブ)の 映像の個人視聴が勢いを得ている現在、映画の源流をどこに求めるかの議論もまた再開しているように思われる。映写方式ではない、一人の覗き見式のエディソンのキネトグラフ的な映像との向き合い方が原点であると言う主張も当然成立するし、説得力を 持つであろう。ちなみに映画の日(12月1日)制定の根拠となっているのは、このキネトグラフの最初の公開が神戸の神港倶楽部において、1896(明治29)年11月25日から12月1日まで行われたことである(その前の17日に小松宮殿下に見せた、などの記録もある)。制定の時点で主流であったのは映画館で多数の観客が見るという方式であった。上述の現在の状況を知る由もなかったのである。同 様なことは神戸市のメリケンパークに置かれた「外 国映画上陸第一歩」を記念したモニュメントについても指摘出来る。大きな石を穿ち、スクリーンに見立た《メリケンシアター》という題名のこのモニュメントは、山口牧生ほかが結成していた「環境造形 Q」が制作した(1987年)。彼らの「映画」に託した想いを斟酌出来るにしても、やはり違和感を感じる。本稿は、映像との接し方が過去も現在も多様であったと言う立場に立脚して書き進めたい。これまで多くの研究がなされ、その姿が定着してきている 映画都市としての京都について、この場で追加することはほとんどない【註 5】。簡単にまとめておきたい。この国で最初の映画撮影所は 1908(明治 41)年、吉沢商会が東京は目黒に建てたものであるが、京都では少し遅れて1910(明治43)年、二条城の隣に横田商会の撮影所が設立された。ここで活躍したのが牧野省三である。その後、変遷を重ねて日活の大将軍撮影所となり、そこから独立した牧野省三が等持院内に撮影所を建てる(1921(大正10)年)。やがて1923(大正12)年9月の関東大震災以降、京都の商業映画製作のスタジオが一気に増加する。他方、芝居小屋を上映会場としていた時代から、映画上映を専門とする映画館の登場も同時的に生じていた。日本最初の常設映画館とされる電気館(東京・浅草)の誕生は、1903(明治36)年。それ以降、各地に建設が進んだ。京都においても、1908(明治41)2月の電気館(やはり新京極)を始めとして、新京極西陣を中心に多数の映画館が林立する。
だが、本論の目的はこのような映画にあるのではない。美術と映像の接点において、個人の表現者を通して創造される仕事である。以後はそうした実践に的を絞っていきたい。扱う項目(人物や団 体、出来事など)は以下を予定している。


戦前:「映画随筆」(香野雄吉、清水 光)/ 前衛映画発表会 / フランス前衛映画面写真展 / アマチュア映画の興隆 / 田中喜次と童映社、JO スタヂオ / プロキノ / 中井正一、貴志康一 / 能勢克男 / 政岡憲三 / 朝日会館の壁画 / 絵葉 書・双眼写真

戦後: 記録映画を見る会 / 草月アートセンターの企画巡回 / 小松辰男と現代劇場 / シ・ドキュメンタリー・フィルム / 美術家の映像、「映像表現」/ 京都府フィルム・ライブラリー / 多彩な自主上映運動の開化 / 京都における映像教育


一つの参考事例がある。福岡市美術館が開催した「福岡映像史」である(1992年11月3日〜12月6日)。「福岡市という土壌が映画・映像をひとつの文化として育み、位置づけてきた」と言う認識に立ち、5週に渡り「福岡映像前史」、「福岡のテレビ・ドキュメン タリー」、「福岡市出身・ゆかりの映画監督」、「福岡8ミリ映画の系譜」、「福岡の自主映画運動」の枠組みで多数の作品が上映され、同名のカタログも発行された。昨今のように美術家がその表現手段として映像を活用する状況の到来以前ではあるが、地域と広い意味での映像とのつながりを通時的に捉える優れた企画であった。この小文、「メディア都市京都」の先行的な試みとして評価したいと考える。



【註5】京都新聞社編『京都の映画80年の歩み』(京都新聞社/ 1980 年)。あるいは、先の【註2】に挙げた鴇明浩&京都キネマ 探偵団編『京都映画図絵――日本映画は京都から始まった』(フィ ルムアート社 / 1994年)、加藤幹郎『映画館と観客の文化史』(中公新書/ 2006 年)。
【註6】テレビ・ドキュメンタリーには、最近ようやく全国的にその仕事が知られてきた、RKB毎日放送の木村栄文の作品が含まれていた。また、8ミリ映画の系譜とは正にアマチュア映画作家と大学映画研究会の活躍に焦点を当てたものであった。自主映画運動の文脈で、「フィルム・メーカーズ・フィールド」や九州芸術工科大学を拠点とした個人的 / 実験的映像制作が紹介された。



Letter Vol.01 2015年5月25日発行

Letter Vol.02 2015年11月25日発行

Letter Vol.03 2016年10月25日発行

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